
タイトル:張ダビデ牧師 - 偽りの教え
1. 偽りの教えを警戒し、主の恵みに感謝する生き方
張ダビデ牧師が強調するように、『テモテへの第一の手紙』(以下、Ⅰテモテ)1章でパウロがテモテに送った訓戒は、牧会を行う者や、いかなる形であれ群れを養う立場にある信仰者にとって非常に重要なメッセージを伝えています。いわゆる「牧会書簡」と分類されるこの書は、第一には若いテモテがエペソ教会でどのような態度と姿勢で人々を導き、教えなければならないかを具体的に扱っています。しかしさらに進んでみれば、教会を任されて牧羊する人々だけでなく、2世代や後輩たちを先輩として導かねばならないすべての人が、自らを顧みて守るべき原則を提示していると言えます。パウロはこの手紙を通じて特に二つの大きな教えを強調しています。一つ目は「偽りの教え(doctrine)を警戒せよ」ということ、そして二つ目は「罪人である自分を救ってくださった主の恵みと憐れみに常に感謝せよ」ということです。この二つの柱こそⅠテモテ1章の核心的な要旨であり、教会を形作るすべての人が必ず握るべき根幹となります。
まずパウロが「偽りの教えを警戒せよ」と言ったのは、その時代であれ今の時代であれ、牧会や牧羊を委ねられた者が果たすべき最も重要な使命の一つだからです。張ダビデ牧師をはじめ多くの牧師たちは、教会共同体の内に入り込む歪んだ教理や偽りの思想から羊の群れを守ることが、牧会のうえで非常に優先的な課題であると説きます。というのも、教会を破壊し、共同体の聖徒たちを真理から逸脱させる最も根本的な問題は、多くの場合、教理的な混乱や曲解から生じるからです。パウロの時代のローマ帝国は、多神教的な世界観のもと、数多の思想や哲学が百家争鳴のように乱立する時代でした。すべてが相対化され、混在していたその時代背景のなかで、唯一の神の言葉(正しい教理)を守り、継承していくことは決して容易な挑戦ではありませんでした。これは21世紀の今もあまり変わりません。マスメディアやインターネットを通じてあらゆる情報が簡単に飛び交い、人々はそれを十分に取捨選択できないまま信仰と混同してしまいます。だからこそ教会のリーダーやみことばを教える立場にある人々は、より慎重に分別し、偽りの教えを正確に見極めて、信仰の共同体を守らねばならないのです。
パウロはⅠテモテ1章の後半に進むにつれ、教会を混乱させる異端的な主張や誤った解釈、あるいは誤った倫理観などを直接に取り上げています。こうした偽りの教えに揺さぶられるなら、結局は人々の魂が破壊されるほかないと彼は診断します。当時ローマ帝国という巨大な多元社会において福音を守り抜くためには、真理の上に堅く立って偽りを見分ける目がどうしても必要だったのです。この識別力は、自ら鍛錬を積み、みことばを深く掘り下げ、正しい神学と教理を体得することで得られます。パウロは若きテモテに、あるいは現代の若き牧師やすべての信仰者に対して「自分自身が眠らないよう気をつけなさい」と強く促しているのです。そのためにも信仰共同体自らが教理について学習し、みことばを基礎とした討論や検証を通じて、段階的に成熟していくプロセスが欠かせません。張ダビデ牧師が語るように、一つの教会を預かる者が一度も体系的に教理を整理したことがなければ、その教会の信徒たちは必ず教理的な脆弱性に晒されてしまいます。教理を守り研究することは決して古臭い思弁的な勉強ではなく、むしろ実際の生活を守り抜く最前線であるという事実を決して忘れてはなりません。
またパウロはⅠテモテ1章の後半で、「偽りの教えを警戒するとき、その警戒の目的は愛から出るものでなければならない」と勧めます。教理を守り正しい真理を弁護することが、単に「自分が正しく相手が間違っている」という論争で終わってはならないのです。真理を守る理由は、ただ愛と憐れみの心から発するものであるべきだと、彼は明確に示しています。つまり、偽りの教えに陥った者をただ裁き、排斥するだけで終わるのではなく、彼らが立ち返るように祈りつつ助け、心を回復させるよう努める必要があるということです。牧羊の最も重要な使命とは、真理を守りながら同時に人々を生かし、最終的には彼らを主の恵みと憐れみのもとにもう一度導くことだからです。
このように偽りの教えを警戒するよう強調したうえで、パウロは「主の恵みと憐れみを常に感謝せよ」というメッセージを強く提示します。彼自身の歩み--すなわち「自分はかつては神を冒涜する者であり、迫害者であり、暴虐者であったが...信じていなかったときに知らずに行ったので憐れみを受けた」(Ⅰテモテ1:13)--この告白をテモテの前で隠すことなくさらけ出します。パウロはもともと福音を迫害し、キリストを信じる者たちを捕らえることに熱心だった人物でした。しかし主は彼に特別な憐れみを与え、最も深刻な罪人であってさえ救い、新たに用いることがおできになるという事実を明確に示されたのです。彼が言う「罪人の中で私が最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)という表現は、単なる誇張された謙遜ではなく、真に自己を認識した上での告白でした。そしてこれはすべての信仰者に大きな希望を与えます。人間的に見れば最悪の罪を犯したとされる者であろうと、神の恵みはその罪を超えうるという点を私たちに悟らせてくれるからです。
マタイによる福音書18章に出てくる「無慈悲なしもべのたとえ」は、一万タラントもの借金を帳消しにしてもらったしもべが、自分に百デナリオンを借りていた仲間をまったく許さなかったという内容です。一万タラントがどれほど大きな金額か想像してみれば、それは労働者にとって16年分もの賃金に相当する莫大な額であり、いっぽう1デナリオンは1日分の賃金で、比較的少額だったことがわかります。つまり、比べものにならないほど膨大な借金を帳消しにしてもらったのに、わずかな借金を抱えた仲間を少しも許せない姿がいかにとんでもないことかを示すわけです。ここで示される核心メッセージは、私たちもまた主の前で一万タラントにも及ぶとてつもない罪を赦された者であるという事実です。ですから、自分に少し過ちを犯した兄弟姉妹を許せないとすれば、それもまた無慈悲なしもべと変わりありません。パウロは自分こそまさに「一万タラントを帳消しにしてもらったしもべ」のような者だったと悟り、それゆえ生涯を通じて「主の恵みと憐れみ」を伝え、心打たれずにはいられなかったのです。
張ダビデ牧師が説くように、最終的に「自分がどれほど大きな罪から救われたのかを知ること」が、牧会(あるいは牧羊)者の内面において非常に重要です。なぜなら、この悟りがあってこそ他人を許し、他人の弱さを覆い、他人と共に真理へ進むために必要な謙遜と愛が芽生えるからです。パウロはかつて自分が通ってきた道、すなわちイエス・キリストに敵対し、教会を迫害していた記憶を決して隠しませんでした。むしろその過去の恥をあからさまに語ることで、主の大いなる慈しみと憐れみがどれほど壮大で広大であるかを証しました。そしてこれは現代に生きる信仰者にとっても同様です。私たちの弱さや罪性が明るみに出るほど、むしろ主の恵みは一層力強く輝きます。こうした体験が深まるとき、信徒同士がお互いを扱うときにも、より寛大な心と許しが溢れてくるのです。
さらにパウロは、Ⅰテモテ1章の後半で「罪人の中で最たる者」として過去を回顧するだけでなく、『使徒の働き』9章で自分がいかに劇的に回心したかを証しています。ダマスコへ向かう道中で光の中から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)という御声を聞き、主の招きによってすべてを新しく見るようになりました。その後パウロはおそらく3年ほどアラビアに滞在し、深い黙想と祈りに時間を費やしたと推測されます。これが彼の神学的・霊的基礎を形成する重要な時期となったのでしょう。その期間、自分のような者に与えられた恵みがいかに途方もなく偉大であるかを噛み締めつつ、同時に旧約聖書とイエス・キリストの福音を調和的に理解する枠組みを築いたと考えられます。そしてこの時間があったがゆえに、後にパウロは「私は人から受けたのでもなく、教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によって(福音を)受けたのです」(ガラテヤ1:12)と大胆に告白できたのです。
張ダビデ牧師が強調するように、私たちがⅠテモテ1章を通じて必ず握るべきメッセージは、自分たちの救いが完全に恵みと憐れみによるものであり、その恵みが私たちの内面にいつも溢れていなければならないという点です。テモテは信仰深い祖母ロイスと母ユニケによって信仰教育を受けていた、品行の良い人物でした(Ⅱテモテ1:5)。しかしパウロに言わせれば、テモテもまた「恵みがなければ決して救いに到達しえない罪人」であることに変わりはありませんでした。この事実を悟り、日々主の恵みを黙想し感謝する心を保つときに初めて、正しい牧会、正しい働き、正しいリーダーシップが発揮されるのだとパウロは教えます。
この観点で、マルコによる福音書14章に登場する一人の若者(伝統的にマルコ本人と推測される)が最後に裸で逃げ出す場面(マルコ14:51-52)を改めて思い起こせば、それは恥ずかしく臆病な弟子の本性をさらけ出しているように見えます。ところが、この場面を自分の福音書にわざわざ記録したという事実は、マルコがいかに自分が弱い者であり、同時に主の計り知れない恵みと愛をいただいた者なのかをはっきり告白したい思いを表しています。これは私たち一人ひとりにも大きな教えを与えます。信仰生活を送るなかで「私は本当に主を愛している」と口で言いながらも、決定的な瞬間に臆病に逃げ出したり、主を否むような状況に直面することがあります。けれども主はそうした弱い私たちですら無限に愛してくださり、十字架の道を最後まで歩まれました。私たちがこの事実を心から悟るとき、私たちの牧羊も本当の意味で誠実さをもって行われるようになるのです。
パウロはテモテに向かって「罪人の中で私が最たる者だ」として過去を思い起こすだけでなく、『使徒の働き』9章での回心体験を証言しました。ダマスコへ行く途中に「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いて(使徒9:4)、主の召しによってすべてが新しく見えるようになったのです。その後パウロはアラビアで約3年間を過ごし、深い黙想と祈りのなかで自身の神学的・霊的土台を固めたと推測されます。その間、自分のような者に注がれた恵みの大きさを繰り返し思い返しつつ、旧約聖書とイエス・キリストの福音を調和的に理解する骨組みを整えたことでしょう。そしてこうした時期を通してこそ、パウロは後に「私は人から受けたり学んだりしたのではなく、イエス・キリストの啓示によって受けたのだ」(ガラテヤ1:12)と宣言するに至ったのだと考えられます。
張ダビデ牧師も強調するように、Ⅰテモテ1章から私たちが必ずつかむべきメッセージは、私たちの救いが全面的に恵みと憐れみに基づいているということ、そしてその恵みがいつも私たちの内であふれていなければならないということです。テモテは信仰深い祖母ロイスと母ユニケから信仰教育を受けてきた、温厚な性格の持ち主でした(Ⅱテモテ1:5)。しかしパウロから見れば、テモテもまた「恵みがなければ決して救われない罪人」であることには変わりなかったのです。このことを悟り、日々主の恵みに思いを巡らせて感謝する心を持ち続けるとき、初めて正しい牧会、正しい働き、正しいリーダーシップがもたらされるのだとパウロは教えています。
ここで再びマルコが自分を福音書に書き残したことを思い起こしてみると、そのメッセージは「私は主を愛していると言いながら、最も肝心な瞬間に主を見捨てて逃げ去った臆病者だった。けれども主はそんな私をも最後までつかんでいてくださった」という告白として読めます。これこそマルコが証しする驚くべき恵みです。テモテもまた似たような内面を持つ人物で、パウロから見ると柔和で内気であり、時には病弱にさえ見える若い後輩でした。しかしパウロがよく知るように、このような弱い器を神は用いられ、むしろ不足があるからこそ神の力が完全に現れるようにされるのです。パウロが言った「私はこの地上の人間の中で一番ひどい者だった」(Ⅰテモテ1:15)というような告白は、私たちに「ああ、自分もそうなのだ。自分が優れているから教会にいるのではないのだ」と痛感させます。だからこそ私たちは、日々与えられている恵みを忘れず感謝する生き方をせねばなりません。その恵みに感謝するとき、牧会や牧羊の場にいるときに、他者を包み込み、どうにかして彼らが回復するようともに歩むことができるのです。
パウロはここからさらに踏み込み、「私を強くしてくださったキリスト・イエス、私たちの主に感謝をささげる。その方は私を忠実な者とみなし、この務めを任せてくださったのである」(Ⅰテモテ1:12)と告白します。パウロが「主が自分を忠実な者とみなしてくださった」というのは、人間的に見ると理解しがたい表現かもしれません。一時は教会を崩壊させようとしていた者を、主は忠実なしもべとして認め、重責である「異邦人の使徒」という職務を委ねられたからです。このように神が召し、用いられる基準は、人間的な経歴やスペック、資格条件を超越しています。これこそが「主の限りない恵み」であり、同時に「神の主権的なわざ」なのです。ですから張ダビデ牧師をはじめ多くの教えがいつも強調するように、私たちは「自分が忠実な人間だから」職務を任されるのではなく、まず主が私たちを立たせてくださり、義と認めて(称義)、聖なる者と見なして(聖化)くださる恵みのうちにあって職務を委ねられるのです。これこそが「主が私を忠実な者とみなしてくださった」というパウロの告白の実際の意味と言えるでしょう。
こうした恵みの告白が具体的に牧会の働きにおいてどのような結果をもたらすのでしょうか。パウロが言う「良い忠実なしもべ」という概念は、マタイによる福音書25章のタラントのたとえにおける主のほめ言葉と重なります。主人は良い忠実なしもべに対して「おまえはわずかな事に忠実だったから、多くの事を任せよう」とほめたたえ、反対にタラントを地中に埋めておいた怠惰なしもべには「悪い怠け者のしもべ」と叱責しました。これは私たちが与えられたタラントを活用し、実を結ぶ責任を示しています。そしてパウロが自ら「主が私に職務を任せてくださった」と感激しているのは、小さなことに忠実であれば、神がさらに大きな使命を任せてくださるという原理をよく示しています。私たちも共同体で小さな役割を担った瞬間から、すでに「良い忠実なしもべ」となる機会を与えられているのだと言えるでしょう。
Ⅰテモテ1章は、①偽りの教えを警戒して正しい教理を守り、②私たちに与えられた救いの恵みと憐れみを絶えず感謝し、③この地で職務を委ねられた者として忠実に、さらに正しい良心と強い信仰をもって患難に打ち勝て、という勧めで要約できます。そしてこれは、決して初代教会のパウロとテモテだけの話ではなく、現代の教会を形作るすべての聖徒が心に刻むべき原理です。張ダビデ牧師がよく言うように、時代を問わず教会が揺らぎ、私たち個々が揺さぶられることはあり得ますが、みことばからその答えを見出し、分別力をもって世を生き、同時に自分が受けた恵みに感謝する姿勢を持つなら、決して道を誤ることはありません。
2. すべての人のための祈りと救いの普遍性
張ダビデ牧師をキーワードに再び考えてみると、Ⅰテモテ2章につながるくだりでパウロが強調しているのは、「牧会する者(あるいはすべての信徒)がまず第一に取るべき姿勢は祈りである」という点です。パウロは「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、願いと祈り、執り成しと感謝をしなさい」(Ⅰテモテ2:1)と述べています。ここでのキーワードは「まず第一に(First of all)」と「すべての人のために(for all men)」です。つまり牧師であろうと平信徒であろうと、教会に仕えるすべての人は「最優先で」祈るべきであり、その祈りは「すべての人類」を視野に入れたものでなければならないというのです。これはテモテのように若く、しかも病弱にさえ見える牧会者にとっては実に大きな命令に感じられたかもしれません。「自分が仕えている小さな教会の世話だけでも手一杯なのに、いったいどうしてローマ帝国全体、さらには全人類のために祈れるだろうか?」という疑問が湧くのも当然でしょう。しかしパウロは私たちに「壮大な世界観」を提示します。神は唯一の神であり、万物の主権者であり、この地に存在するすべての人が神のかたちに創造されたというキリスト教の基本教義を改めて想起させるのです。
パウロが「王たちや高い地位にある人のためにも祈りなさい」(Ⅰテモテ2:2)と具体的に挙げたのは、当時ローマ帝国の皇帝(ネロ)のような最高権力者を念頭に置いていたからです。教会はローマの支配下で時に苛酷な迫害を受けましたが、それでもパウロは「そうであればあるほど、王たちや高い地位にある人々のために祈りなさい」と勧めるのです。その理由は「私たちが敬虔に、品位をもって、平穏で静かな生活を送るため」と語られています。つまり為政者たちが神の御前で正しい決定を下すよう祈らなければ、結果的に教会も安定した状況下で福音を伝えることが難しくなるからです。この命令は教会が独裁や不義な政権と妥協せよという意味では決してありません。むしろ「教会は、この世の決定権者たちも神の主権下にあると信じ、彼らが悔い改めて善い政策を行うよう執り成して祈りなさい」という意味です。そしてこれは現代にも通じます。巨大な国家権力や政治体制のもと、一人の人間は無力に見えるかもしれませんが、教会は彼らに向かって祈り、神の善なるみこころがあらゆる制度や決定に及ぶよう願わなければなりません。
パウロはさらに、神が「すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)と言っています。この箇所は教理史的にも大きな論争を引き起こした部分です。カルヴァン主義(Calvinism)は神の選び(予定)を強調し、アルミニウス主義(Arminianism)は人間の自由意志を強調します。しかしパウロは「すべての人が救われることを望んでおられる」という表現を用いて、神の救いの御心が決して偏狭でも狭量でもないことを明らかにしています。同時に、ローマ書9~11章で述べているように「選び」の奥義があることも教えています。結局、聖書には「すべての人が救われることを望まれる神の心」と「特に選ばれた者たちへの恵み」がともに記されています。これは互いに矛盾する主張ではなく、神の大きな摂理のうちにおいて調和的に理解されるべき事柄です。張ダビデ牧師も多くの講演で「私たちがいただいた救いは決して偶然ではなく、神の特別な選びと愛の結実であることを悟るべきだ」と力説しつつ、同時に「その選びは、特定の個人や集団だけの独占物ではなく、人類全体に開かれたものであることを記憶しよう」と強調してきました。
Ⅰテモテ2章でパウロは「神は唯一であり、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスなのだ」(Ⅰテモテ2:5)と宣言しています。この「唯一のイエス・キリスト」こそすべての人のために御自身を贖いの代価として差し出された方(Ⅰテモテ2:6)なのです。贖い(Ransom)とは、罪の奴隷状態にある人類を解放するために代わりに支払われる代価を指し、イエスは全人類のためにその代価を支払われたということです。「その死が限定的贖罪なのか、それとも普遍的贖罪なのか」という神学的論争の文脈において、パウロのこの言葉は「イエスの救いは『すべての人』に向かって開かれている」という意味合いに近いでしょう。しかし実際にその普遍的恵みの中へ入ってくるのは、神に予定された者たちだということを、『使徒の働き』や『ローマ書』など多くの箇所が同時に示しています。この点で私たちは、神の救いが決して範囲を越えた狭い選びではなく、世界への神の愛と目的であり、個々人も「時がくればそれが証しされる」ことを信じるのです(Ⅰテモテ2:6)。
この文脈で張ダビデ牧師は次のような例話をよく挙げます。ある人が地下鉄の駅で伝道しようとしたものの、「誰が神に選ばれた人だろうか」とか「誰が善良で正しい人だろうか」といちいち測りかねて、結局は誰にも声をかけられずに帰ってしまったという話です。これは私たちの現実とも似ています。たとえば、ある人が私たちから見てあまりにも罪が深そうに見えたり、とても福音を受け入れそうにないように思えても、それでも私たちは彼や彼女のために祈り、福音を伝えねばなりません。なぜならパウロ自身がまさにそういう存在だったからです。教会を潰そうとした最も悪質な人物だったにもかかわらず、神は彼をキリスト教史上最も偉大な使徒へと変貌させました。こうした事例を考え合わせるなら、私たちが隣人を「この人は無理だ」と早とちりしてしまうのは、神の主権を制限してしまうことになるのです。
パウロはすべての人のために祈るべきことを強調しながら、その祈りを四つの言葉で区分して説明します。Ⅰテモテ2章1節で語られる「願い・祈り・執り成し・感謝」です。原語である「願い」(δέησις, デエシス)は「請願」あるいは「リクエスト」と訳され、欠乏の状況で嘆願する祈りを指します。「祈り」(προσευχή, プロセウケ)は、王の前にひざまずくように尊い方の前にひれ伏し、切に捧げる祈りを意味します。「執り成し」(ἔντευξις, エントゥクシス)はインターセッション(Intercession)つまり他者を代表したり、代わりに捧げる公的な祈りです。最後の「感謝」(εὐχαριστία, ユーカリスティア)は聖餐と直接結びつき、主が与えてくださった救いと命を思い返して捧げる感謝の祈りを指します。
これら四つの祈りの形態は、祈りの生活全般を非常に具体的に分類してくれる枠組みとも言えます。私たちは往々にして個人的な必要ばかりを求めやすいのですが、パウロは「すべての人のために」という前提のもと、このように祈りを多面的に提示しています。特に執り成しの祈りと感謝の祈りは、共同体的な側面において非常に重要な意味を持ちます。教会という場は、自分の問題だけを嘆願するのではなく、互いのために祈り、さらにこの世の権力者や支配者たちをも抱いて祈る場所なのです。旧約聖書の出エジプト記17章で、アマレクと戦う場面においてモーセが手を上げて祈り続け、アロンとフルが彼の腕を支えたことで勝利を得るエピソードは、こうした光景を象徴的に示しています。これは教会が一致して神に執り成し、嘆願すれば、私たちの想像以上に強い力が働くことを知らせてくれます。
張ダビデ牧師は祈りを説明する際にしばしば「Think Globally, Act Locally(地球規模で考え、足元から行動せよ)」というスローガンを引用します。これはキリスト者が持っている「神の支配」に対する世界観を拡張する表現であり、今日では通信と交通が発達し、世界が「グローバル・ビレッジ(地球村)」となった時代にますます適しています。私たちは地球の反対側にいる人々の痛みをリアルタイムで知ることができ、また1日あれば飛行機でほぼどこへでも行けます。だからこそ「世界全体を視野に入れて、各地域で行動する」というこのスローガンが現実的な使命となるのです。パウロがテモテに「王たちや高い地位にある人々のために祈りなさい」と命じたとき、それは「自分の力の及ばない膨大な領域」のように見えたでしょうが、霊的には決してそうではありませんでした。なぜならこの世界のすべては神の掌の内にあり、教会こそが霊的支配の権威を共に委ねられている存在だからです。今日の教会もこの霊的視点を回復し、全世界のために真剣に祈り続ける必要があります。
では、このように祈るとき、私たちはただ世の平和だけを求めるのでしょうか。パウロはさらに一歩踏み込み、「最終的にすべての人が救いに至るように」祈れと語ります。そしてこの救いは単に抽象的な概念ではなく、すでにキリストが十字架でご自身の命を代価として差し出し、成し遂げられた出来事に基づきます。そういう意味で「キリストはすべての人のためにご自身を贖いの代価としてお与えになった。これは時至ってあかしされることだ」(Ⅰテモテ2:6)という本文は非常に重要です。福音宣教が単なる教勢拡大や個人的目標の達成ではなく、すでに完了したキリストの死と復活の出来事を世に証しし、キリストの贖いのみわざが「すべての人のため」のものであることを宣言する行為だからです。
もちろん、ここでの言葉があたかも「すべての人が自動的に救われる」という「万人救済説(ユニバーサリズム)」を支持しているのだ、と即断してしまうのは正しくありません。パウロ自身、ローマ書やガラテヤ書、エペソ書など多くの書簡で、イエス・キリストを信じることによって義と認められる「信仰の応答」をはっきりと強調しています。しかし同時に、「神は一人も滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでいる」(Ⅱペテロ3:9)というペテロの手紙第二3章の言葉のように、神の思いはきわめて広大で寛容性を備えた普遍性も持っているのです。教会がこうした壮大な救いのスケールを心に抱くなら、伝道対象となる人に対しても、まだ福音に敵対的な人に対しても、決して簡単にあきらめたり軽々しく断定したりはしなくなるでしょう。
パウロは最後に、Ⅰテモテ2章7節で「このために私は宣教者と使徒に任ぜられたのです。私は真実を言っているのであって、うそは言いません。私は信仰と真理を教える異邦人の師なのです」と告白します。彼が誇りをもって「宣教者と使徒」という職分を語るのは、かつて教会を迫害していた自分を召し、むしろ異邦人に福音を宣べ伝える主要な発言者とされた神の驚くべき摂理によるのです。彼は投獄されても、総督や王の前に立っても大胆に福音を伝え、「私だけでなく、あなたがたもこの福音を聞いて私のようになることを願っています」(使徒26:29)という有名な言葉を残しました。こうした大胆さこそ、Ⅰテモテ2章4節「すべての人が救われて真理を知るようになることを神は望んでおられる」というメッセージと正確に結びつくのです。
牧会書簡であるⅠテモテが伝えるところ、つまりテモテに与えられた勧めは、現代の教会を導く者、あるいは教会に仕えるすべての人にも同じように与えられた命令です。テモテは弱々しく見え、実際によく胃腸を患い(Ⅰテモテ5:23)、エペソという大都市での働きは精神的負担も大きかったでしょう。しかしパウロは彼に「偽りの教えに揺さぶられず、それらが渦巻く中でも神の真理を守れ。そして自分がいただいた限りない恵みを日々思い出しながら、すべての人のために、特に王たちや権力者たちのために祈りなさい。彼らが正しい道を歩むとき、おまえも敬虔で平穏な形で福音を伝えられるのだから。さらに神はすべての人が救いに至ることを望んでおられるのだから、恐れずに大胆に福音を宣べ伝えなさい」と教えました。張ダビデ牧師が繰り返し語るように、教会が信仰共同体としてこの世に存在する理由は、「福音を伝え、人々を救いへと導く」という神の地上命令を成就するためです。教会が内側だけに閉じこもり、世の人々をまったく顧みず、権力者たちの動向を傍観しているだけなら、この本文が言う「すべての人のために祈りなさい」という命令に不従順な姿勢をとっていることになるでしょう。
またパウロが強調する四つの祈りの領域(願い、祈り、執り成し、感謝)は私たちの現実にもそのまま当てはまります。困難や不足があるとき、それが満たされるように願いの祈りを捧げ、王である神の御前にへりくだって祈り(祈り)、公の礼拝や共同体の祈りの場で執り成し(執り成し)に力を注ぎ、いつでも神の恵みに気づかされたときには聖餐の感謝(感謝)の祈りを捧げるのです。張ダビデ牧師は、こうしたさまざまな形態の祈りが信仰共同体の中でバランスよく満たされるとき、教会は初めて本来の力を発揮すると述べます。どれか一つだけに偏れば、たとえば「願いの祈り」ばかりを強調すれば自分の必要を満たすことに終始しやすく、「感謝の祈り」ばかりに偏れば現実の欠乏や苦悩を無視してしまい、「執り成しの祈り」ばかりに集中すれば個人の霊的修練がなおざりになる可能性があります。したがってパウロが提示したこの四つの区分は、実際に私たちが礼拝や働きを計画するときにも、バランスを取って祈りを実践するうえでの道標となるのです。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者も唯一である。それは人としてのキリスト・イエスである」(Ⅰテモテ2:5)という言葉は、初代教会が世に投げかけた最も革命的な宣言の一つでした。当時のローマ帝国に生きる多くの哲学者、神官、宗教家、皇帝崇拝者たちが、それぞれがそれぞれに「神」を語っていましたが、パウロはただ唯一の神、そしてその神と人間を結びつける唯一無二の贖い主・仲保者であるイエス・キリストを宣言しました。この告白は世と妥協しなかったため、初代教会は迫害を受けることもありましたが、その大胆な信仰ゆえに教会はローマ帝国を「霊的に」揺るがすことに成功しました。最終的には4世紀初頭、キリスト教が公認され、帝国全域に福音が広がるという大きな実りがもたらされたのです。
Ⅰテモテ2章に見るパウロの教えは、世を恐れるのではなく、むしろ世を抱きつつ祈る教会のダイナミックな使命を再認識させます。現代の教会が直面する課題は、過去とは違った形をとっています。科学技術の進歩、多元主義の深化、宗教の相対化、物質至上主義、文化的混合主義など、さまざまな形で信仰の真理を希釈しようとする流れが強くなっています。ですがそれでも、使徒パウロの教えは依然として力を持ち続けています。あらゆることを神が支配しておられると信じる中で「すべての人のために祈る」べきであり、選びと普遍性の両方をしっかり握るべきなのです。教会がこの姿勢で王たちや為政者のために、また世の権威のために祈るとき、たとえ現時点で彼らが福音に敵対的であっても、主は歴史を動かされ、神の国は拡大していきます。これこそ聖書が語る摂理の原理であり、神の偉大な救いの計画が地上に具体的に広がっていく仕組みなのです。
張ダビデ牧師はこうした祈りの実践を「主の視点で世を眺めること」と言い表します。「主の視点」とは、悪に染まっているように見える者でも、希望がないように見える者でも、神がその人を変えれば聖徒となり得ることを信じるまなざしです。パウロが初代教会最悪の迫害者から最高の伝道者へと変えられたように、私たちの隣人や同僚、さらには権力者たちですら、悔い改めて福音のために用いられる可能性があると確信を持って祈る必要があります。そしてこれこそ真の牧会、あるいは牧羊の出発点です。すなわち、自分が受けた限りない恵みを思い出し、その恵みが他のすべての人にも届くことを祈り、祈りにとどまらず実際に福音を伝えて証しすることです。そのように生きるとき、教会は世からまったく離れた存在ではなく、世のただ中で光と塩として、祈りと行動、みことばと愛をもって影響力を発揮することができるのです。
張ダビデ牧師が繰り返し語っていることですが、Ⅰテモテ1章と2章を貫く神学的・牧会的文脈は明確です。第一に、私たちは偽りの教えを見分け、教理的基盤の上にしっかり立たなければなりません。その理由は、罪深い私たちの本性は誤った教えに簡単に引き寄せられるからです。第二に、私たちは「罪人の中で最たる者」である自分すら救ってくださった主の限りない恵みと憐れみを日々思い巡らし、感謝しなければなりません。この恵みを悟ると、私たちは他者に対して冷酷になるのではなく、他者を立てて包み込む牧羊へと進めるのです。第三に、すべての人のために祈り、特に権力者のためにも祈るべきです。なぜなら神はすべての人が救われることを望んでおられ、その祈りを通じて私たち自身も敬虔で平穏な生活を送ることができるようになるからです。さらに、イエス・キリストこそ全人類の唯一の仲保者であることを世に証ししなければなりません。使徒パウロはこの普遍的福音の真理のために召され、身分や地位を超えたすべての人間が味わうべき救いの知らせを述べ伝えたのです。
時代が移り変わっても、Ⅰテモテに対する神学的関心は薄れることがありません。むしろ現代の教会が世俗化や分裂の危機の中でこの書簡を読み返すとき、「真理・恵み・祈り」という三つの柱に立ち返り、もう一度点検することができます。張ダビデ牧師は牧会の現場で、教会が複雑なプログラムや外面的な成長だけを追い求めるときに起きる弊害を幾度も指摘してきました。彼が強調する核心は決して新しいものではありません。すでにパウロがテモテに与えたメッセージと完全に一致しています。「正しい教理を守り、主の与えてくださった恵みと憐れみから離れず、すべての人のために祈ること。」プログラムや方法論、組織運営よりも、何よりも先立つべきはこれらなのだ、ということです。
このようにⅠテモテ1~2章は、一人の信仰者の霊的成熟だけでなく、教会共同体がどのような精神で世に向かうべきかを示す柱のような章です。実際、Ⅰテモテ2章以降でもパウロは女性のリーダーシップ、長老と執事の資格、教会内部の秩序、敬虔の奥義、物質に対する態度、将来の患難など多岐にわたるテーマを扱います。しかしそれらすべての詳細項目の土台となる前提は変わりません。つまり、教会は教理を歪める偽りの教えから真理を守らなければならず、罪から救われて職務を委ねられたのは全的な恵みによるのだから、その恵みを覚えながら働き、最終的には「すべての人が救われることを望む」神の大きな御心を抱いて祈るべきだということです。これこそがパウロの思い描いた教会本来の姿であり、テモテが生涯守り続けた生き方の指針でした。
今日このみことばを改めて思い巡らすとき、世のニュースや政治問題、各地で起こる暴力や戦争、分裂や派閥争いなどを目にして心が沈むこともあるでしょう。「なぜここまで世界は暗いのか。私たちにはあまりにも手に負えないのではないか」と落胆するかもしれません。ですがパウロのメッセージは明確です。「これらすべては神の手のひらの上にあり、教会が神の主権を信じて祈るなら、歴史と世界は動いていくのだ」。こう確信していたパウロは獄中にあっても絶望することなく、宣教の途上で数多の迫害に遭っても落胆しませんでした。私たちが受けた恵みが大きく、私たちの仕える神が偉大なのだから、決して世に押しつぶされて座り込むのではなく、一人の魂、一人の魂を目指して、さらには王や権力者たちにも向かって祈り、福音を伝えるのです。
張ダビデ牧師もまた、多くの説教や著書を通じて、この使徒的な確信を21世紀に合った言葉で再び届けようとしてきました。彼は祈りこそ教会が世のためになし得る最も影響力のある行動だと繰り返し語ります。しかもその祈りが単なる宗教的儀式の反復ではなく、神の御心を読み取り、世を憐れみ、愛をもって共に息づくレベルにまで達したとき、本当の力を発揮すると力説します。そして祈りを通じて神のご計画を少しずつ悟っていきながら、同時に救いの門が万人に開かれている事実を知らせるのが教会の使命だと強調するのです。
結局、Ⅰテモテ1章と2章が私たちに提示するのは、「偽りの教えを警戒すべき重大な責任」とともに、「罪人である私を救ってくださった主の大いなる恵みに絶えず感謝し」、そして「すべての人が救われることを願われる神の御心にあずかって祈る」という使命です。教会がこの三本柱のうちどれか一つだけを強調してもバランスを失います。たとえば教理の保護ばかりを訴えていると恵みに対する感動が失われ、教会は冷たい知識の偶像に陥りやすくなります。一方で恵みだけを強調すれば信徒たちの教理的な分別力が弱まって偽りの教えに振り回されやすくなります。また祈りと伝道に対する熱意が薄れてしまうと、教会の存在意義自体が揺らいでしまうでしょう。ですからパウロがテモテに伝えたこのバランスのとれた勧めは、現代の教会が改めて心に刻むべき根本的な教えなのです。
さらに牧会書簡としての牧会的側面を見ると、パウロはエペソという大都市の只中で格闘するテモテを想定し、個人的な慰めと励ましを惜しみなく与えました。彼がⅠテモテ1章の最後で「患難を『強い信仰と正しい良心』をもって戦い勝ちなさい」(Ⅰテモテ1:18-19)と言い、2章に入った途端に祈りをまず強調し(Ⅰテモテ2:1)、「すべての人のために祈りなさい」と促すのは一つの好循環を成しています。祈りによって神と交われば信仰が強くされ、その信仰は正しい良心を保つ助けとなり、正しい良心は偽りの教えに陥らないようにさせてくれます。そしてこのすべての基盤の上に「主の恵みと憐れみ」を握りしめて生きていけるのです。使徒パウロの手紙はテモテに宛てられたものですが、事実上それは初代教会全体、そして2000年後を生きる私たちにもそっくりそのまま届いています。張ダビデ牧師をはじめ多くの人々がこの本文を教え、強調し続けるのは、こうした普遍的かつ根本的な真理が、今の教会と信徒にも絶対的に必要とされているからに他なりません。
私たちはみな「牧羊者」あるいは「牧会者」です。たとえ教会で正式な職分を与えられていなくても、職場や家庭、隣人や知人たちとの交わりの場において、何らかの形で彼らをケアし、福音へと導く責任を負っているからです。そのとき、Ⅰテモテ1~2章が強調する原理が私たちに明確な方向を示してくれます。すなわち、日々偽りの教えとは何かを警戒しつつ、同時に自分がどれほど大きな愛の賜物である救いを受けたかを忘れず、最終的にはその愛をもって世を抱いて祈るということです。こうした祈りがスローガンに終わらず、実際の生活へと広がっていくとき、教会は真の力を現すようになるのです。
最終的に「偽りの教えを警戒しろ」と「主の恵みに常に感謝しろ」という二つの柱をしっかり立てている人だけが、Ⅰテモテ2章にある「すべての人のために祈りなさい」という命令に正しく応答できるのだと言えます。そしてこれこそが牧会(牧羊)の本質です。張ダビデ牧師もいつも語ります。「私たちはこの地を通過する巡礼者であり、最終的には天国が本当の故郷なのだから、その希望を胸に抱いて恐れず世に仕えなければならない」。この希望こそ私たちが持つ最大の資産であり、世のどんな物質や権力も奪えないものです。パウロが多くの苦難の中にあっても喜びと大胆さを失わなかったのは、まさにそこに理由があります。そしてその希望が具体化していく過程で、私たちを通して別の誰かが救いの道へと招かれるでしょう。これこそⅠテモテが後の多くの時代の教会に残してくれた最も尊い遺産であり、私たちがつかむべき核心的メッセージなのです。



















